「忙しいから看護ができない」ってどういうこと?

「忙しくて看護ができない」

看護師をしているとよく聞く言葉です。

人手は足りないし、受け持ちは多い。
入退院が重なれば、ナースコールも鳴り続ける。
記録も終わらなければ、そんな日に限って急変まで起きる。

まあ、忙しい。

それはわかる。

私もNICUや訪問看護など、緊急処置や時間的制約の中で働いてきたので、その気持ちはわかるつもり。

だから、忙しい現場で働く看護師に向かって、

「もっと患者さんに寄り添いましょう」

なんて、したり顔で言うつもりはない。

これ言われるとなかなか腹が立つもんね。

ただ

それでも私は、「忙しいから看護ができない」という言葉には、ずっと違和感がある。

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時間がないと看護はできないのか

たしかに、患者さんとゆっくり話をするには時間がいる。

椅子に座って話を聞いたり、沈黙を待ったり、言葉にならない思いを一緒に探したり。

そういう関わりには、ある程度まとまった時間が必要になる。

でも、それだけが看護だろうか。

たとえば、採血をするとき。

何も言わずに腕を出してもらい、針を刺して、終わったら次の患者さんへ行く。

これでも業務としては成立する。

でも、

「昨日、眠れました?」

と聞くことはできる。

顔色を見ることもできるし、返事の間がいつもより長いことに気づくこともできる。

「ちょっとしんどそうですね」

と声をかけることもできる。

かかる時間は、数秒かもしれない。

それでも、そこには看護がある。

清拭をしながら皮膚を見る。
移乗をしながら身体の動きを見る。
薬を渡しながら表情を見る。
ナースコールに対応しながら、いつもと違う声の調子に気づく。

看護は、“看護のためだけに確保された特別な時間”にしか存在しないわけではない。

業務の中にもある。

むしろ、日常の業務の中にどう看護の視点を入れるかが、看護師の仕事なんじゃないかと思っている。

「業務になってしまう」のは「忙しいから」なのか

「忙しくなると、どうしても業務になってしまう」

これもよく聞く。

でも、ほんとにそうか?

忙しいから業務になるのではなく、やっていることを業務としてしか見なくなったときに、業務になる。

同じおむつ交換でも「交換すること」だけが目的なら、それで終わる。

でも、皮膚の状態を見る。排泄の変化を知る。痛みがないか確認する。羞恥心に配慮する。患者さんの反応を見る。

そこまで含めて関われば、同じ数分でも中身は変わる。

点滴交換でも、体位変換でも、バイタルサイン測定でも同じこと。

やっている行為が同じでも、そのとき何を見て、何を考えて、どう関わるかで、ただの作業にもなるし、看護にもなる。

だから、「今日は忙しかったから、看護ができなかった」とか言われると

ほほう?

となる。

本当に、何も看護していなかったのだろうか。

たぶん、そんなことはない。

患者さんの安全を守った。苦痛が増えていないか見た。転ばないように支えた。家族の不安そうな表情に気づいた。忙しい中でも、少し声をかけた。

それも看護だったはず。

なのに、自分の中にある「理想の看護」と比べて

「今日は看護ができなかった」と評価してしまう。

それは少し、自分の看護を雑に扱いすぎではないかと思う。

看護を「特別なもの」にしすぎていないか

看護について語るとき、

「患者さんに寄り添う」
「話を聞く」
「思いを受け止める」

という言葉がよく出てくる。

もちろん、めちゃくちゃ大事。

私も緩和ケアに関わってきたので、対話の大切さを否定する気はまったくない。

ただ、それだけを看護だと思ってしまうと、忙しい現場では看護ができなくなる。

患者さんの横に座って、じっくり話を聞く。
その人の思いを受け止める。
何か心に残る言葉をかける。

もちろん、そんな看護ができる日もある。

でも、毎日そんなドラマみたいな看護ができるわけがない。

30分話を聞けなかった。
心をほぐす言葉をかけられなかった。
患者さんから「あなたに会えてよかった」と言われなかった。

だから看護ができなかった。

そんなことはない。

看護はもっと「地味」だ。

点滴をつなぎながら顔色を見る。
おむつを替えながら皮膚を見る。
身体を起こしたときの息づかいを気にする。
いつもより返事が遅いことに気づく。
嫌がることを無理に進めない。
忙しくても雑に扱わない。

そういうものの積み重ねだと思う。

別に患者さんを感動させなくてもいい。

看護した証を、わざわざエピソードに残す必要もない。

忙しいなかで必要なことを見落とさず、その人をただの作業対象にしなかった。

それも看護だ。

むしろ、そういう積み重ねを看護として見ずに

「今日は忙しくて看護できませんでした」

とか言ってしまうのを、少し不思議に思う。

看護を「特別なもの」にしすぎると、看護は患者からも現場からも遠ざかる。

看護は、もっと日常の中にある。

特別でないどころか、たぶん、そんなにきれいでもないし、そんなに格好よくもない。

でも、それでいいよね。

なんなら、それ“が”いいよね。

忙しさが看護を難しくすることはある

もちろん、ここは誤解されたくない。

忙しさは、看護の質に影響する。

人手不足や過重労働を「工夫すれば看護はできる」の一言で片づけるつもりはない。

そんな精神論でどうにかなるなら、現場はとっくにどうにかなっている。

患者さんと話す時間が取れない。必要なケアを十分にできない。振り返る余裕もない。

そういう環境は、確実に看護を難しくする。

構造的な問題は、構造的な問題として改善されるべき。

ただ、「忙しいから看護ができない」と全部を忙しさのせいにしてしまうと、自分の中に残っている看護まで見えなくなる。

そして怖いのは、
「時間があるときだけ看護をする」
「時間さえあれば看護ができる」
という考え方になってしまうこと。

時間があるときに話を聞く。
余裕があるときに気にかける。
業務が終われば患者さんを見る。

それでは、看護が業務のあとにやるオプションみたいになってしまう。

それは誰のための看護なの?

自分のやりたい看護を相手に押し付けているだけではないか?

どうしてもそう感じてしまう。

看護は業務と別枠にあるものではない

看護師の業務には、点滴、採血、処置、清潔ケア、食事介助、排泄介助、記録と、まぁいろいろある。

でも、その業務と看護が別々に存在しているわけではない。

業務をしながら看護する。

というより、看護師が何を見て、何を考え、どう関わるかによって、その業務は看護になる。

私はそう考えている。

だから、「業務に追われて看護ができない」と感じたときは

「自分にとって看護とは何なのか」を見つめ直してほしい。

看護とは、

患者さんとゆっくり話すことなのか。
心に響く言葉をかけることなのか。
特別なケアをすることなのか。

それだけじゃないよね。

数秒の観察も、ひと言の声かけも、少しの違和感に気づくことも、患者さんが嫌がることを避けることも、忙しくても雑に扱わないことも。

そういうものも、全部ひっくるめて看護よね。

忙しい日々の中にある看護

忙しい現場で働いていると、「今日も何もできなかった。」と思う日がある。

もっと話を聞きたかった。
もっと丁寧に関わりたかった。
もっと何かできた気がする。

その気持ちはわかる。

むしろ、そう思えるのは、ちゃんと看護をしたいと思っているからだと思う。

でも、できなかったことだけで、自分の看護を評価しなくてもいい。

短い時間でも見ていた。
気づいていた。
考えていた。
守っていた。

それも看護。

「忙しいから看護ができない」と嘆く前に、

「自分にとって看護とは何なのか」

もう一度、そこを見つめ直してほしい。

看護は、時間に余裕がある時にするものではない。

多忙な日々の中にも、確実に看護はある。

そしてたぶん、思っているより、ずっと地味なところにある。

だから看護はおもしろいんだ。

おわり。

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