看護観は理想論ではない
「看護観なんて意味がない」
「現場では通用しない」
そうした声を聞くことがある。
そのたびに少しひっかかる。本当にそうだろうか、と。
看護観は、きれいな言葉を並べたものではない。
理想論の表現でもない。
もっと現実的で、もっと個人の働き方に近いところにあるもの。
自分がどのような看護師として仕事をしていくか、その軸。
私はそう思っている。
正解はない、だがそれで終わらない
看護観に正解はない。
患者に寄り添う看護をしたい人。
専門職としての役割を重視する人。
生活を支える職業として看護を選んだ人。
動機はさまざま。
どれもその人の看護観になり得る。
立派なものである必要はない。
むしろ本音に近いほど、行動と矛盾しにくい。無理がなく、長く続きやすい。
実際、そういう看護師ほど現場で安定しているように見える。
看護観はきれいごとでなくていい。
だが、それだけでは終わらない。
自由には前提がある
正解はない。だが、越えてはいけない一線はある。
患者や家族に害を及ぼす可能性がある考え方。
専門性を置き去りにして「自分の看護観だから」と主張する姿勢。
それは看護観ではなく、専門職としての責任からの逸脱。
現場にいると、この一線の重みを実感する場面が少なからずある。
看護観の土台には常に
安全、倫理、専門性がある。
この前提があって初めて、個人の考えは看護観として成立する。
枠の外に出た瞬間、それは看護ではなくなる。
学生が看護観を考える理由
学生時代に看護観を問われた経験がある人は多いだろう。
教員の満足する答えを探して、困惑した人もいるかもしれない。
だがあれは正解を求める問いではない。
理想像を語らせるためでもない。
おそらくは学生が将来を考える礎にするため。
私の願望込みで、今はそう思う。
どの分野に進みたいか。
どんな患者と関わりたいか。
どんな働き方なら続けられそうか。
仕事に何を求めるか。
これらはすべて看護観とつながっている。
自分の看護観が見えている人は、進路選択が現実的になる。
迷いはあっても、判断軸があると、足取りは力強くなるものだ。
学生にとっての看護観は道標
看護観は提出物ではない。
模範解答があるわけでもない。
将来への道標。
迷ったときに立ち戻る場所。
選択に悩んだときの基準。
働き方がずれ始めたときに気づくための指標。
立派な言葉はいらない。
自分の本音に近い形で把握していることが重要。
それがあるだけで、自分のイメージと大きく外れにくくなる。
自分の軸を持っている人は、選択の後悔も少ない印象がある。
指導する側から見える看護観
看護観は本人の内面の問題に見えて、実は周囲にも影響する。
その人が何を大切にしているのか。
どんな場面で力を発揮しやすいのか。
どんな環境で負担を感じやすいのか。
どこで折れやすいのか。
看護観が言語化されていると、指導の方向性が見えやすい。
指導していると、この違いははっきり現れる。
どの経験がその人にとって意味を持つか。
どんな課題の与え方が成長につながるか。
どの環境が合いそうか。
逆に、看護観が見えないと「なぜつまずいているのか」が分かりにくい。
能力の問題に見えていたことが、実は価値観とのミスマッチということもある。
看護観は評価のための言葉ではない。
その人に合った育ち方を考えるための手がかり。
本人が自分の看護観を理解していることは、
指導する側にとっても大きな支えになる。
看護観は変化する
経験で変わる。
環境で変わる。
ライフステージでも変わる。
変わること自体は問題ではない。
むしろ自然なこと。
重要なのは、その時点の自分の考えを把握していること。
考えることを止めないこと。
それができていれば、看護観は機能し続ける。
そして、看護師で在り続けられる。
看護観は働き方の設計図
看護観は理想論ではない。
自分がどのような看護師として働いていくかの言語化。
どこで働くか。
何を学ぶか。
どんな働き方を選ぶか。
その選択の裏に、看護観がある。
私も自分の看護観に導かれて、ここにいる。
看護観は飾りではない。
その人の働き方の設計図。
そういう位置づけだと思っている。

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