「言葉の暴力」なんていう大仰なタイトルにしてみたけどそんな大層な話はしないつもり。
ゆるーく読んでもらえればと。
経験という言葉。
みなさんはどんな印象を持つだろうか。
経験値があるとないとでは全然違う。
これはみんなの共通認識だと思う。
ただこの経験で厄介なのは“貴重な経験”をした場合。
例えば“学会発表”の経験なら個人の頻度はそれほど多くない人もいるだろうが、少し周りを見渡せばそれなりの経験者がいるだろう。
その経験者たちから心得や準備方法なんかを聞いて初めての学会発表に臨めばいい。
こういう意味での経験ならシンプルな話。
じゃあ“戦争”の経験となるとどうだろう。
第2次世界大戦の経験者はそれなりにいらっしゃるとは思うが自分の身近なところにそう多くいるとは限らない。
こういう簡単に経験できないいわゆる“貴重な経験”をした人の言葉はとても重要とされる。
戦争でいうと「語り部」という人々が後世に戦争の恐ろしさや悲惨さを伝えてくれている。
ただひとつ注意してほしいのはその経験はあくまで“その人の経験”であるということ。
経験した人すべてが同じ思いを共有しているとは限らない。
先ほどは戦争で例えたが“難病”だとどうだろう。
難病に対する闘病の記録やその時の気持ちを他者に伝えてくれるのはとてもありがたい。
時には難病を乗り越えて同じように苦しむ人々の力になりたいと活動をしている人もいる。
そういった方々は自身の経験もあり、患者の気持ちに寄り添った素晴らしい活動をされていることが多いと思う。
ただそのような活動を見ているとたまに感じることがある。
経験者の放つ言葉の暴力的なまでの強さを。
経験者というのは経験したことがあるから経験者なのであり、その人の放つ言葉は紛れもなく真実なのだろう。
でもそれがすべての人に共通するとは限らない。
経験者の言葉というのは真実であるがゆえに周りが意見することが難しい。
ほんとにそうか?と思っても経験者本人にしかわからないため本人が“そうといえばそう”なのである。
この強さをどう捉えるか。
これってけっこう難しいと思う。
同じ経験をしても考えや感じ方は千差万別。
このことをきちんと理解していないと経験者の考えをただ押し付けることになる可能性がある。
「自分の時はこうだった」
このn=1の経験談が同じように苦しむ大勢の人たちにどれだけ当てはまるのかは実際にわからない。
当てはまる人もいるだろうから貴重な経験者の声は非常に重要だという認識は変わらない。
ただそれらをすべて鵜呑みにしてしまうことやその考えを押し付けるのは危険だという話。
自分の場合は阪神淡路大震災の経験がある。
自分は少数派だと理解しているのであまり当時の経験を語ることはないけれど文字に起こす作業は以前にしたのでよかったらどうぞ。
自分の中では被災者が紡ぐ言葉に違和感を感じることはあるし世間がその言葉を共通認識かのように扱うのもなんだかなと思うこともある。
唐突だがまとまりがなくなってきたのでこの辺で終わりにしようかと思う。
言いたかったのは
経験者の言葉ってとても強い力があるから取り扱い注意だなってことでした。
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