患者が最期に過ごす場所。
終の棲家。
いよいよ治療が難しくなり症状緩和を中心にする時期になると「最期をどこで過ごすのか」という話題が必ず出る。
多くの医療者は「最期は住み慣れた自宅で」という考えがまず先行するのではなかろうか。
「最期は自宅で」
その考えは最もだしごく自然な思考だと思う。
でも家に帰ることばかりを意識すると患者・家族の本当の思いを見落とすこともある。
ある患者の話。
(大筋以外は改変あり)
小学校入学して間もない子。
症状緩和中心の治療を行いながら”最期をどのように過ごすのか”という話が現実味を帯びてきた頃。
例外なく「最期をどこで過ごすのか」という話になった。
在宅医療の提供体制を整備して自宅療養への準備を整えた。
医療者としては
「最期を住み慣れた自宅で過ごせるように」
「家族に見守られながら穏やかな時間を」
そんな思いを持ちながら状況を整えていた。
ある時父親と最期の過ごし方についてふたりきりで話す機会があった。
その時の言葉は強烈におれの心を抉った。
「これから家で過ごせるのは嬉しいことです。在宅サービスも幸いなことに近くにいい条件で見つかった。家でも苦しい思いをさせずに過ごせる。ありがたいことです。でも本当の最期だけは家で過ごすべきか悩んでます。病院より自宅のほうがゆっくり家族の時間が持てるというのはわかります。」
「でもその時を迎えた後。私は“我が子が死んだその家”でその後も毎日を過ごせるとは思えません。生活の中に我が子の姿がちらつく。これはいいことでしょうか悪いことでしょうか。私にはわからない。でも今の私にはその光景は耐え難い苦しみ、悲しみに感じます。そんな思いを抱えながら過ごすのはつらい。なので本当の最期の瞬間だけは病院で迎えたいと思う気持ちもあります。」
この言葉を聞いて医療者のみなさまはどのような感情をもつだろうか。
自分は先ほども述べた通り
思いもかけない言葉だったこともあり強烈に心を抉られた。
在宅医療を支える家族の苦労は理解しているつもりだった。
最期の瞬間が訪れるその時までの在宅生活の期間を体力、精神的につらいという話はよく聞いてきた。
だからそもそも自宅療養を希望しない。
そういう選択肢があることももちろん理解していた。
ただそんな家族でも最期の瞬間だけは自宅で迎えたいとそう思う人は多かった。
「在宅療養はできる限りがんばりたい。」
「でも最期の瞬間だけは自宅で迎えたくない。」
今までそういう考えと向き合ったことはなかった。
自分の想像力のなさに辟易した。
家で最期を過ごすことで死後も故人の面影を感じられる。
それは基本的にポジティブなイメージだった。
最期に住み慣れた自宅で家族の時間を過ごしてもらい、その思い出を、その光景を心にとどめることは遺された人たちにとって大切なことであると思っていた。
思っていたというか決めつけてしまっていたらしい。
父親の言葉を聞いて
患者・家族の価値観や背景を丁寧に聞いているつもりではあったがまだまだ至らない部分はいくらでもあると痛感した。
その後、父親がその思いを吐露してくれたことから丁寧に調整し、最終的には患者・家族の望む形で最期の時間を過ごせたのではないかと思っている。
「我が子の死んだ家」
自分の子どもを看取ったその家をそのように表現する人もいる。
「最期は住み慣れた自宅で」
いつの間にか万人共通の理想の過ごし方であるかのように刷り込まれた考え方。
医療者は多くの患者・家族と関わるうちに無意識のうちにパターンに当てはめてしまっていることがある。
多くの患者・家族と関わるからこそ、より丁寧に向き合い、それぞれの価値観を尊重できるように。
それこそまさにACP。
答えのない話し合いをくり返しくり返し行っていけるように。
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