【それは誰の言葉?】自分が医療者であることをあらためて考えた話

先日、祖母が地域を徘徊していて保護された。

そして認知症の診断を受け、そのまま医療保護入院となった。

という話を親に聞かされた。

祖母はそこそこいい年なので自分としては特に驚くこともなく淡々と話を聞く。

ひとまず入院中は安心かなと思い、自分が急いで何かをしなくてはならないとは思っていなかった。

そして入院から1週間ほどして面会に行った。

面会前に親と合流して簡単に聞いていた事の成り行きを詳細に確認。

親は非医療者だが説明内容はそれなりに頭に入っていたようで少し安堵しながら親の言葉を聞く。

その中で説明者によって説明内容に違いがあって対処に困ったという話が出てきた。

まぁ病院勤務をしているとその手の話は往々にしてある。

どの話を誰から聞いたのか確認した。

まずそこでひとつめの衝撃を受ける。

「あっ顔はばっちり覚えてるけど名前は憶えてなかった…」と返答が。

いや、顔とか名前ではなく医師からの説明なのか看護師や検査技師からの説明なのか。

それでだいたいわかるから教えてと言葉を変えて再確認。

すると「いや、主治医の名前はわかるけど他の人は医者とか看護師とかわからん…でもあの説明をしてくれた人は若そうやったから看護師さんかな?でも主治医も若かったしな…」

と言い出して諦めた。

医療者からすると「“誰が”説明しているのか」というのは当然ながらとても重要なこと。

知識に違いがあるというのはもちろんだが、そもそもそれぞれの立場で伝えられる内容が異なる。

それを相手の立場(職種)も知らずに言われるがまま鵜呑みにして聞くというのはとても怖い。

まずは「“誰に”話を聞いているのかは絶対に意識しろ」ということを親に伝えた。

そしてふたつめの衝撃は面会の時。

祖母は認知症の診断による医療保護入院なので精神科の閉鎖病棟に入院していた。

病棟の特性上、面会は面会室で短時間と決められている。

しかし、祖母は発熱しているから面会室まで来るのが難しいとのことで特別に病室に案内してもらった。

ご飯があまり食べられていないので点滴をしているという情報はあったものの、この時の自分はまだ「認知が歪んでいようが点滴をしてようがまぁそれなりの姿の祖母と会える」と思い込んでいた。

そんな思いはドアを開けた瞬間に崩れ去る。

そこには寝たきりとなってピクリともしない祖母の姿があった。

近寄って声をかけると、微動だにしないままで言葉にならない声をぼそぼそとうわごとの様に発するだけだった。

認知症の診断。

それそのものは確かに正しいのだろうが、それ以上にそもそも生命の危機ではないか?

そういった印象。

親からそういう話は一切なかったのであえてはっきりと伝えた。

『そもそも命が危ない可能性は考えてる?』

はじめは鼻で笑うように「いや、認知症やで?」と聞いていた親もこちらの真剣な言葉に徐々に顔が曇る。

ひとまず少しでも状況が理解してもらえたようで良かった。

祖母はまだ闘病中なので何のオチもない話になってしまうのだが、自分が感じた2つの衝撃。

稚拙な文章ではなかなか伝えることができないかもしれないが、医療者ならどちらも考えることすらしないほど自然と理解していることだと思う。

あらためて言うがうちの親は非医療者だ。

もちろん非医療者みんながそうであるとは思わない。

経験の違いもあるだろう。

だが、身内の非医療者とこんなにも病状の捉え方に違いがあるのかということに驚いた。

そして思い返す。

自分が今まで多くの患者・家族にしてきた説明や指導は本当の意味で相手に届いていたのかと。

相手が医療者という情報がある時とない時で多少は区別することもあった。

医療者同士なら専門用語を使うほうが伝わりやすいこともあるから。

そういった自分なりの気遣いをふまえて自分に問い直す。

その時々の相手にとって最善の対応をしていたか。

気持ちの上では胸を張ってイエスと言えるのだが実際のところは確かめようはない。

だが、少なくともこれからはもっと意識して対応できる。

祖母の入院がきっかけで親に学ばせてもらった。

いくつになっても子どもとは言うがこの歳で親から新たな学びがあるとは。

そんな驚きも含めて3つの衝撃についての話でした。

おわり。

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