Vol.15【緩和ケアの真髄とは?】Not doing , but being

あけましておめでとうございます。

なんやかんやとダラダラ続けております「感情のごみ箱」。

こんなてきとうな運営なのにちょこちょこ見に来てくれる皆さんのおかげで細々と続けることができてます。

ということで今年もよろしくお願いします。

新年一発目はどうせなら「これぞ緩和ケア」みたいなことしたいなと思ってこのテーマに。

緩和ケアのちょっとタメになる話Vol.15”「Not doing , but being」。

緩和ケアを勉強したことがある人なら聞いたことはあるかなと思う。

そんな言葉を今回はあらためて紹介させていただく。

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「Not doing , but being」

冒頭で「聞いたことあるかも」なんて書いてみたけど実は自分自身、この言葉は緩和ケアを勉強して初めて知った言葉。

でも今では緩和ケアを提供する医療者として強く心に刻まれた言葉になっている。

今回初めて聞いた人の心にも残ればいいなと思っている。

たまにこの言葉を誤解した表現として「Cure(キュア)からCare(ケア)へ」と混合してる人がいる。

「CureからCareへ」っていうのも治療が難しくなってきた段階でケア中心の関わりに移行していくという意味で緩和ケア関連でよく使われる言葉ではある。

「Not doing , but being」を「治療ができなくなってもケアによる苦痛緩和はできるよ」って誤った解釈をしているパターン。

この言葉の本質はそこではない。

“Cure”も“Care”も「doing」であり、医療者が行う行為である。

つまり医療者が主体となっている。

それに対して「being」は医療者が患者のそばにいさせていただくというニュアンス。

つまり主体者が患者になっている。

自分の中では「being」は「患者の人生にそっとお邪魔してその時間をともに過ごすこと」だと解釈している。

患者の人生における(終末期ならば)残り僅かな時間をともに過ごさせてもらう。

それって冷静に考えるととても尊いことだと思わない?

自分事だと思って考えてほしい。

もし余命1か月と言われたときにその残りの時間を誰と過ごしたいか。

多くの人は愛する家族とか親しい友人とか心許した人たちと過ごしたいのではなかろうか。

少なくとも仕事上の付き合いしかない人や昨日今日あったばかりの人と貴重な時間を過ごしたいと思う人はあまりいないだろう。

終末期の患者というのはつまりそういう状況にあるわけで、たとえ入院中だとしても変わらない。

入院という限られた環境の中でも、その貴重な時間を誰と過ごすのか。

誰と過ごしたいのか。

それを選ぶ権利は患者にある。

医療者だから、バイタルチェックや巡視があるから、なんてステレオタイプな理由で患者の貴重な時間をつぶしてほしくない。

医療者側もそれは本意じゃないはず。

ほんとは何かしてあげたい、でも何もしてあげられない。

医療者側もそんなつらい思いを抱えている。

だからこその「being」。

「being」の意味をしっかり心に刻んで患者の人生の貴重な時間にお邪魔させていただいているという気持ちをもって患者との時間、空間を共有する。

「ただそばにいること」そのものが患者にとっての救いになる可能性があること、ひいては何もできないとこぶしを握り締めるしかなかった自分を救う可能性があること。

「being」という“緩和ケアの神髄”を意識することはお互いにとって重要な意味を持つ。

そのために普段から信頼関係を構築していく必要があるというのはポスターで触れた通り。

結局は一つ一つの積み重ね。

たとえこの世に“緩和ケアマスター”なるものがいたとしてもそれまで関係を築いてきた人たちにはかなわない。

「緩和ケアマスターなら全部やってよ」とお願いしても患者との信頼関係を築くところからはじめないといけないのでそう簡単にはいかない。

だからこそ緩和ケアは専門家だけが頑張ればいいんじゃなくて医療チーム全員で取り組まなければならないというわけ。

資格はもちろん知識や技術の壁を越えた“信頼関係”というのは「Not doing」となった時点でほかの何よりも強い力となる。

そんな“緩和ケアの神髄”についてのお話でした。

今年も緩和ケア頑張っていきましょう。

あらためてよろしくお願いします。

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