緩和ケアのちょっとタメになる話Vol.14は「鎮静と安楽死」について。
ちょっと重たいテーマに感じるかもしれないけど「安楽死」という言葉について少し思うところがあったのでこのテーマにしてみた。
27d312bac083cbef110a70a3442291bc鎮静との違いという観点で安楽死についてまとめてみた。
詳しく触れなかった“消極的安楽死”についてはまたいずれ気が向いたらまとめてみようかなと思う。
さて、今回は特に補足することはないのでここから先は超個人的意見を述べておく。
興味ない人はここで終わってもらっても全然差し支えない。
個人的意見というのはポスター最後に触れた「安楽死の是非」について。
結論から述べると個人的には安楽死はアリだと思っている。
ポスターにも記載した安楽死の目的は「死による苦痛緩和」そして「死による苦痛の終わり」を目指す。
死によって苦痛が終わるのならば“安楽死が苦痛緩和の選択肢に入る”のはむしろ当然だと思う。
自分の死生観を以前まとめたことがあるんだけど、自分の中では「死=生(苦しみ)からの解放」だと思っている。
あらためて語るには長いので気になる人はこちらを見てもらえれば。
なので“死が苦痛緩和の手段になりえる”のであればそれを否定したり非難したりする気は全くない。
ただひとつ問題を挙げるとすれば“日本で”実現するのは難しいだろうなとも思ってる。
日本に住んでいて思うのは日本人は“死に関する話題”が圧倒的に苦手だということ。
これは「はっきりモノを言わない思いやり文化」だったり「宗教があまり浸透していない(重要視されていない)こと」だったり「個より集団を尊重する傾向」があったりなどなど日本ならではの文化があるからだと思っている。
それが良いとか悪いとかいう話ではないが、少なくとも“安楽死”に関する点で言えば日本で実現させるのは難しいというかかなり危ういものになると容易に想像できる。
安楽死が実現できる社会というのは「自分で自分の命に責任を持つことができる」ことが大前提であり、その上で家族含めた周囲の人たちと“命(生死)に対する思い”を共有し合える関係性が築ける社会だと思う。
世界各国で安楽死の法整備が進んでいる。
しかし、法整備が進んだからと言って各々が自分の命に責任を持てるとは限らない。
少なくとも日本で法整備がされるまでにはひとりひとりが自分の命との向き合い、責任を持ち、周りの人々とそれを気軽に話すことができる社会になっていてほしいと願っている。
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