Vol.13【死の受容過程とは?】希望はどんなときでも存在する

緩和ケアのちょっとタメになる話Vol.13

今回の話は“希望”について。

終末期患者やその家族が希望を口にすることは多々ある。

時にはその希望が医療者から見て現実離れした希望であることもあるかと思う。

そんなときに「現状を理解していない」と短絡的に結論付けてしまうことがないように今回の“緩和ケアのちょっとタメになる話“を読んでほしい。

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PDFで記載できなかったことについて少し追記しておく。

例えば終末期でもう何も食べることができない状況の患者がいたとする。

その患者の家族が
「最期に一口でも好きなものを食べさせてあげることはできないか」
と希望を口にしたとき、どう思うだろうか。

人によっては“現状を理解できていない”と思うだろう。

そのことについては上記のPDFで述べた通りなので割愛する。

ただこの例のような場合は“工夫次第で何とかなりそう”なのでみんなで検討して“なんとか食べられないか”となることが多い印象がある。

もっと誤解を生じやすいのは未来についての希望を語るとき。

例えば…

終末期にある乳児が自力で遊びまわることを期待する。

終末期にある小学生が中学受験の希望を語る。

などなど今すぐどうこうしたいではなくこの子の将来はきっとこうなる(もしくはこうしてあげたい)といった未来についての希望を持っている場合。

少し冷たい言い方になるかもしれないが医学的に判断するとその未来はやってこない可能性が高い。

それならば今の状況から考えられるQOL向上を目指すべきだ。

と考える医療者は多いのではないかと思う。

その考え方ももちろん間違いではない。

でも本当にそれでいいのかという考えも同時に持つべきだと思う。

特に子どもにとってのQOLは大人の考えるQOLと異なっている場合も多い。

子どもというのは思いもよらないことに人生における重要な価値観を持っていたりする。

また、発達段階の途中にある子どもにとってはたとえ可能性が0であっても“過去の振り返りや現状の整理”よりも“未来に期待して突き進む”ことそのものが「生きる」ことであることもある。

いずれにせよ患者・家族と丁寧にコミュニケーションを取りながらその言葉や希望の背景を知り、残された人生をどう過ごすか一緒に考えていくという大前提が大切なのは言うまでもない。

希望は“生きる力”である。

患者・家族が希望を口にしたとき、その希望の内容にかかわらず、しっかり受け止めて、できる限り支えることは終末期医療に携わるものの責務だと思っている。

希望を叶えることがすべてじゃない。

叶う可能性がどれだけ低くとも、希望を持ちながら死に向かうその強くたくましい精神に敬意を示しながらともにそばで見守ることも立派な緩和ケア。

たとえ叶うことがなくとも希望や期待に満ちた心で最期を迎えることができたなら。

その子にとって人生が充実したものになればいいなと願いながら日々のケアを実践している。

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