Vol.20【「さよならのない別れ」と「別れのないさよなら」】あいまいな喪失

緩和ケアのちょっとタメになる話Vol.20

今回は喪失の中でもちょっと特殊な「あいまいな喪失」について。

明らかに失ったわけではない不確実であいまいな喪失。

まずはいつものポスターからどうぞ。

4c5860e8a825fa1aed62470a96538257

『「さよなら」のない別れ』と『別れのない「さよなら」』。

緩和ケアの勉強をしている時に知った言葉でとても心に残っている。

それはいずれの状況も、想像したときに心がひどくざわついたから。

喪失というのは大事な人、ものを失うという経験なので誰にとっても非常につらいことである。

だが個人的には“失った”という結果があるぶん諦めがつくこともあるのではと思う。

少なくとも自分としては変に期待や希望を持つよりその方が次のステップに進みやすく感じる。

だが「あいまいな喪失」はその“結果”がない。

「あいまいなことをあいまいなままにしておくこと」は“ネガティブケイパビリティ”と言って、ある場面ではとても有用な考え方であり心の持ちようなのだが、喪失に関する“あいまいさ”でそれが適用されるのかは判断が難しい。

ポスターで触れたが『「さよなら」のない別れ』は身体的には失っているが確証がなく、気持ちとして「さよなら」ができないという状況。

もしかしたらそのうちふらっと帰ってくるかもしれない。

目が覚めたら隣にいるのではないか。

きちんと「さよなら」ができないというのはそういう状況ということ。

ある種の希望は存在するので必ずしも結果を明確にすることがいいとも限らない。

だがその状況が数か月、数年と続いたときにどうだろう。

「もう帰ってこないんだ」と自分が認めてしまうことが“相手への裏切り”と感じてしまうこともあるだろう。

自分だけは信じて待っていなければ。

そういう気持ちで生活を続けるのはかなりの負担だと思う。

一方で『別れのない「さよなら」』は気持ちとしては大切な人を失ってしまったがまだ相手が目の前にいるという状況。

この“相手が目の前にいる”という現実はよりつらい状況を引き起こすきっかけになりうる。

先に述べた『「さよなら」のない別れ』は相手がいない分、周囲から見ても“失った”という本来の喪失に近い状況のため共感してもらいやすいし悲嘆の援助も受けやすい。

だが、『別れのない「さよなら」』は“身体的には存在している”という状況のため、喪失体験をしているという事実が軽視されがちな印象がある。

少し想像してみてほしい。

ずっと隣で連れ添ってきた大切な人が病気や事故などである日突然別人のようになってしまったらどうだろうか。

優しかったあの人が急に怒りっぽくなってしまった。

いつも冗談を言っていたあの人から笑顔が消えた。

心にぽっかりと穴があくのは当然のこと。

もちろん認知症のように時間をかけてじわじわと人格が変化しても同じ。

自分のよく知る大切な人ではなくなってしまった。

たとえそう感じてもそれを感情として表に出すことは道徳的に抵抗があることもあるだろう。

周囲の人から見ればそこにその人は存在しているので、そもそも“喪失経験をしている”という事実自体に気づかれないこともあるだろう。

「目の前にいるだけいいじゃないか」

そんな心無い言葉を悪気なく言われるかもしれない。

自分でもわかってる。

相手がいるだけいいじゃないか。

全く会えなくなるよりはいいじゃないか。

そんな風に言い聞かせながら自分を抑え込んで過ごす日々。

そんな日々がつらくないわけがない。

2種類の「あいまいな喪失」を紹介した。

当然ながらどちらの方がよりつらいということはない。

つらさに優劣なんてない。

それは大前提。

ただ『別れのない「さよなら」』のように気づかれにくい喪失があるということはあらためて理解しておいてほしいと思う。

「あいまいな喪失」への援助についてはかなり個別性の高いものになるのでここでつらつらと書くのは遠慮しておくが、子どもへの援助については少しだけ触れておきたい。

子どもはしばしば“忘れられた悲嘆者”と表現されることがある。

「悲嘆」というのは喪失に伴う様々な感情の変化のことで、子どもはその感情を表出する機会が得られないことがしばしばある。

これには喪失という大人でも衝撃的でつらい経験を“子どもにさせたくない”という子どもを思うがゆえの配慮などが影響している。

大切な人を亡くすなどの経験をしたとき、もちろん大人自身も悲しみの中にいる悲嘆者である。

大人であっても自分の悲嘆と向き合う時間は必要であり、簡単に乗り越えられるものではない。

そういった状況から、自分のことで精いっぱいで子どもに目を向けられないこともあれば、真実や状況を伝えることで子どもに悲しい思いをさせたくないと考えることもある。

だが、子どもは大人が思うよりも敏感に状況を感じ取るもの。

大人にとっては“子どもへの配慮”でも子どもにとっては“仲間外れ”に感じることもあるだろう。

子どもだって大人と同じようにつらく悲しい思いをしているかもしれない。

その場合、“仲間外れ”にされることで子どもは感情を表出する場を与えられず、すべて自分の中で処理しなければならない。

子どもを配慮した結果、大人でさえつらく苦しい経験を、子ども自身に「自分だけで乗り越えろ」と無意識に押し付けている可能性もある。

もちろん子どもの年齢やその人との関係性などによって対応は変わってくる。

大切なのは、子ども自身が「今はそっとしておいてほしい」のか「一緒に悲しみの輪に加わりたい」のかなどを丁寧に確認し、我慢したり無理強いされることなく、子どもなりに悲嘆と向き合う場を整えてあげることである。

ちょっと暗い話になってしまったけれどとても大切なことなのでこれから少しでも意識してもらえればと思います。

おわり。

コメント

タイトルとURLをコピーしました